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古来、人はどう裁かれてきたか

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武内宿禰による創建と伝えられる甘樫坐(あまかしにます)神社(奈良県明日香村)の立石。故事にちなみ、毎年4月、この石の前で盟神探湯が行なわれている(筆者撮影)

武内宿禰による創建と伝えられる甘樫坐(あまかしにます)神社(奈良県明日香村)の立石。故事にちなみ、毎年4月、この石の前で盟神探湯が行なわれている(筆者撮影)

 常に結論が正しいとは限らないが、それがないと社会が成り立たない。法と裁判をめぐっては、有史以来、数々のドラマが生まれてきた。  たとえば、古代における盟神探湯(くかたち)。容疑者に誓約をさせた上で、煮えたぎった釜に手を入れさせる。火傷をすれば有罪、無事なら無罪となる。つまりは、神が判断を下すという、神明裁判である。  盟神探湯は、『日本書紀』に3回記録されている。  最初の事例は、応神9年夏4月(西暦に直すことはできない。応神天皇が実在していれば、5世紀前半の人物ではないかと考えられている)の条で、武内宿禰(たけうちのすくね)受難の物語だ。ちなみに、武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えた忠臣で、『古事記』はこの人物を蘇我氏の祖と記録する。  応神天皇は武内宿禰を筑紫(九州)に派遣して、民を監察させた。すると弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が武内宿禰を排そうと考え、天皇に讒言(=ざんげん=偽りの報告)を行なった。 「武内宿禰には天下を狙う野心があります。筑紫で密かに謀り、筑紫の地を独立させ、三韓(朝鮮半島南部の国々)と手を結び、天下を取ろうとしているのです」  そこで天皇は使者を遣わして武内宿禰を誅殺しようとするが、武内宿禰は難を逃れて都に戻り、無実を訴えた。天皇は、武内宿禰と甘美内宿禰双方の主張を聞いたが、言い争いになって是非を決めることはできなかった。天皇は勅し、天神地祇に祈り、盟神探湯をさせた。磯城川(しきのかわ)のほとりで行なわれた盟神探湯の結果、武内宿禰が勝ち、甘美内宿禰を殺そうとしたが、天皇が制したという。

熱湯に手を入れる「盟神探湯」

 允恭4年秋9月(5世紀中頃か)の記事も興味深い。
 允恭天皇は詔して、次のように述べられた。「上古、人々は定着し、姓名の乱れはなかった。しかしこの頃、上下は争い、民は安らかではない。ある者は[姓(かばね)]を失い、ある者は身分の高い[氏(うじ)]を自称している。世の乱れはこのためだろう」といい、また、「長い歴史の間に、本当の氏素性を確かめることは困難になった。そこで、諸氏族は沐浴斎戒して、盟神探湯をしなさい」と、命じたのだった。
 そこで、味橿丘(=うまかしのおか=奈良県高市郡明日香村の甘樫丘)に探湯瓮(=くかへ=釜)を据えて、人々をここに連れて行き、「本当のことを言えば無事で、嘘をつけば、かならず害を受ける(火傷をする)」と仰せられた。諸人はそれぞれ、神事に用いる木綿のたすきをかけ、盟神探湯をした。すると、真実を語った者は無事で、嘘をついた者は傷ついた。あるいは、嘘をつく者は怖じ気づき、先に進めず、盟神探湯をしようとしなかった。こうして、氏姓は自ずから定まり、偽る者はいなくなったという。
『日本書紀』に記された盟神探湯の最後は、6世紀前半のことだ。朝鮮半島最南端の任那(伽耶)で起きた事件である。
 継体24年(530)9月、任那の使者が、次のように報告してきた。
「毛野臣(=けなのおみ=武内宿禰の末裔で、新羅に攻められた任那を救援するために、朝鮮半島に赴いていた)は、久斯牟羅(=くしむら=慶尚南道)に館を建て、2年も留まったまま、政務を怠っています。このため、日本人と任那人の男女が結ばれ、子が生まれ、どちらに帰属するのか争いが起きて、混乱しています。毛野臣は快楽を求めるかのように盟神探湯をさせ、多くの者が亡くなり、和解するに至っていません」
 そこで天皇は、毛野臣を召喚したという。
 この時代、盟神探湯が行なわれていたという話に現実味を感じられないかもしれない。しかし、『隋書』倭国伝にも、同様の記事が載っているから、事実とみなさざるを得ない。「神の意志」を信じていた古代人は、大真面目に熱湯に手を突っ込んでいたのだ。

室町時代に一時復活

 8世紀に律令制度が整い、「律=刑法」が明文化され、盟神探湯は一度途絶えたが、だからといって、「公正な裁判」が行なわれたかというと、じつに心許ない。権力者は都合の良いように法を解釈したし、手に負えぬ政敵は陰謀にはめて抹殺した。橘奈良麻呂の変(757)のように、独裁権力を握った者が、政敵を捕縛し、拷問でなぶり殺しにしてしまった例もある。
 結局、みなが納得するような裁判は定着しなかったのだろう。中世にいたって、熱湯を用いた裁判は復活している。室町時代の100年間に盛んに行なわれ、戦国時代から江戸時代初期にかけては、鉄火裁判が行なわれた。真っ赤に焼いた鉄を握るという苛酷な裁判である。
 清水克行氏は、『日本神判史』(中公新書)の中で、盟神探湯と博打はどちらも神の意志を問いただす「神事」に由来すると指摘し、盟神探湯について、「当事者に衡平に得失の機会を与えようとする方向性」ゆえに、「人類史上のひとつの叡智と呼ぶことが許される」と述べている。
 罪なき者が咎を受けることもあったろうし、盟神探湯を復活するべきだ、と主張するつもりはもちろんない。ただ、現代の司法制度は、天地神明に誓って正しい判断を下しているのか。真の正義は法と裁判によって実現しているのか。懐疑的になるのは筆者だけであろうか。


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